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2006年03月24日

【車両】旧型客車

和田岬支線の旧型客車写真は山陽本線の枝線、和田岬支線のオハ64という客車です。兵庫から和田岬までの短い区間をDE10型というディーゼル機関車に前後を挟まれて朝夕の通勤ラッシュ時に運転されていました。通勤客を可能な限り多く詰め込むべく座席はほとんど取り払われています。はっきりいってただの箱だけになっている珍しい作りの客車です。こういう路線で走っていたからこのような客車でも珍重されましたが、座席収納型の山手線電車のごとく仮に首都圏で走らせたらどのような批判が寄せられることやら。のちに気動車に置き換えられ、今は電車が後を継いでいます。
昭和時代の後半に入っても長めとなる区間にはこのような客車が走っていました。茶色や青色の車体が多く、青い車体色の新しい客車と対比して旧型客車と呼ばれています。最高速度は時速90キロ程度と大して出ない。木で出来た内装が多く、暖か味があります。どんな形式かはよく知りませんが、たまたま入ったトイレはタイルが貼られていて家庭の延長みたいな居住空間を持つ車もありました。
新幹線が勢力を拡大する前は東海道本線や山陽本線でさえ客車急行が多く、とりわけ夜行列車はほとんどが客車でした。さすがに昭和の後半に入ると旧型客車の急行はなくなりましたが、それでも14系などの客車列車はいくらか残っていたものです。
子供の頃はEF58かDD51が旧型客車を牽引するのは当たり前の風景で、むしろ颯爽な姿で目に飛び込んでくる「こだま型」の特急や交直両用のクリーム+桃色の電車ばかり追いかけていたものです。おっさんになってみればそんな新型電車よりも平凡で取り立てて特徴もないようなおんぼろの客車のほうがなんとなく懐かしくなってどことなく妙な気分です。当時格好良かった特急電車は今でもどこかで見ることが出来るからでしょうか。毛嫌いせずにもっと旧型客車の写真を撮っておけば良かった。
急行とはいえ速度が遅い旧型客車の列車には何度も乗りましたが、のんびり走るぶん「まったり」した汽車旅でした。足が遅くとも停車駅は少なかったので時間がかかりすぎるというものでもなし。空調機器やエンジン、モーターを積んでいないから車内は静かです。
以下、蛇足ながら五月蝿い音が少ない旅は今は貴重ですね。などと書くと旧型客車の旅は良いことが多かった気になりますが、昔は車内に残されたゴミが今と比べ物にならないほど多かったように思います。長距離急行の車内には弁当の食べがらやみかんの皮がいくつも落ちていたものです。全ての列車がそうだったとは申しませんが、ゴミに関しては今の列車のほうが大変清潔で快適です。

投稿者 うえの : 2006年03月24日 12:36

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コメント

たぐちひろきさん、おはようございます。

> 夜行列車の当時の本当の目的は新聞輸送だった

全てがそうとも言い切れないでしょうけれど、たとえば北海道の41列車などは荷物列車に客車がつながっているような形だったと思います。地方では混合列車といって貨物車と旅客車がまぜこぜになっている汽車も珍しくはなかった。
それにしても紀勢本線の夜行は早朝に寝台車を外していたようですが乗客のみなさんはゆっくり眠れたのでしょうか。

投稿者 うえの : 2006年03月26日 06:34

昭和50年代末までは北海道では旧型客車の夜行急行
は健在でしたねぇ。利尻、大雪、まりもなどの急行列車
はワイド周遊券での旅行者にとっては大切な「列車宿」
でした。

さて私自身、旧型客車の夜行で一番お世話になったの
は鈍行ですが紀勢線の「はやたま」号でしょうか。
ニックネームは「釣り夜行」。当時は天王寺を23時に出発、週末には釣客を満載して南紀に向かっていました。未明に串本に到着。朝飯食って釣道具店で餌を仕入れ、夜明けぐらいから釣を楽しんでいました。

今や釣り愛好家の移動手段もマイカーに移り、釣り夜行
も先細りするように運行を縮小していきました。

因みに全国を走り回っていた、夜行列車の当時の本当の
目的は新聞輸送だったと何かで読んだことがあります。

投稿者 たぐちひろき : 2006年03月25日 22:59

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